白金百景
3 殻
18.02.03
かれこれ15年ぐらい前になるだろうか、
チラシを撒いていて、高輪に貝塚古墳がある事を知った。
二本榎通りの伊皿子貝塚だ、今から4000年前のモノらしい。
何層にも積み上げられた貝塚をみていると、
「わたしたちは、ここに居た!生きていた!暮らしていた!
それが途切れず今日まで続いているんだ~!!」と、
わたしに向かって、何万もの貝殻が「カルミナ・ブラーナ」の大合唱をしているようだ。
さっき夕食で食べたシジミの味噌汁の殻と同じように、
人々(わたしは密かに高輪原人と呼んでいる)は4000年前に、
確かにここで貝を食べ、そして「殻」を捨てたのだ。
高輪原人「A太郎」に、
「オレは今晩、貝を食ったぞ」と、歴史的事実を後世に伝えてやろう!
という意図はなかったかも知れない、いやほぼ確実に無かっただろう。
でも、高輪原人「B子」には、
「わたし字が書けないから、日記代わりに食後の貝を積み上げているの、
色とりどりの貝殻日記って可愛いでしょ?」
というセンスがあったかも知れない、いや絶対無かったとも言い切れない。
だって、貝って殻が光っていてキレイ、装身具にもなるじゃん!
って気が付いたのは、高輪原人B子だったのかも知れない。
わたしは、どこか「殻」に惹かれる。
だいたい殻って「絶妙な存在感」だと思いませんか?
現役としての役目は終わってるけど(貝の中身を外敵から殻が守っていた)
でも、中身が食べられちゃったら本来の役目は終了。
ところがゴミに思えた殻は、歴史の証言やアクセサリーとなって、
新たな生を獲得して、とっくに消えた中身より長くこの世に残る。
いや死んではいるんですけどね・・・、この世に形として留まる。
死んでいるような、生きている様な、この世とあの世の中間みたいな存在。
それは、どこか「本」にも似ている。
話し言葉は、その瞬間役割を果たすけれど、言葉は消えちゃう。
空気にもどって姿を消してしまう。
でも、何かに書かれた言葉や絵、そして様々な生活の跡は、
残ることもあるんだよなぁ・・・・・・、貝の殻のように。