本当のエステ
エステはスポーツではない
18.02.03
相撲はスポーツのような単なる競技ではなく、
そもそも神にささげる行為、つまり神事である。
昔々、相撲で一番強い力士は大関だった。
もし、相撲がスポーツで、単なる競技ならそれで良かった。
どんな手を使っても勝ちは勝ち、と言う面がスポーツにはあった。
しかし、大関の中にただ強いだけじゃない力士が出て来た。
もちろん強いのだが、単に戦績だけでなく、勝ち方が立派だった。
ルール上で負けても、内容的には明らかに勝っていたり、
それまでの見方では括れないスケールの相撲をした。
例えば、
相手が無理な体制から捨て身で投げを打つと、
彼は負けるのを承知で、相手にケガをさせない為に自ら手をついた。
ルールで負けても、内容が勝っているという美を、
人々は理解し始め「かばい手」という決め手が生まれた。
彼は、土俵以外でも人々から慕われ、人々は彼に近づき体に触れた。
まるで仏像に触れるとご利益があるかのように人々は感じていた。
そして実際にご利益はあった。
人々を明るく、そして元気にした。
彼は、何と言うか・・・その・・・つまり「より素晴らしい力士」だった。
人々はその力士を大関以上の、特別な価値のある存在だと感じていた。
そして彼は、いつしか「横綱」と呼ばれるようになった。
わたしは、エステだって本当は神事ではないかと思っている。
「寸法や体重の減り具合を争う競技」ではなく、
天から授かったカラダを、大切にする神聖な行為なんだから。
物体としての身体の健康ではなく「生命の健康」
見た目バランスだけの美ではなく「人としての美」は、
神社の鳥居をくぐる度に、気持ちが静かに深まって行くように、
神聖な場に通い、接し、話し、触れ、関わりを積み重ねることで、
ひたひたと精神に宿って行くもののように思っている。